ゾーオン社版(発売 刀水書房) 
愛の詩集 愛の詩集


橘 進著
北山郁子編


定価: 本体1000円+税
2018年10月刊
ISBN978-4-88708-935-8
A5判 200頁

在庫あり
太平洋戦争を生き抜き戦後肺病に。一時は元気に公害反対闘争を闘った著者が遺していた3冊の詩のノート
【目  次】
少年 抄/少女像/手紙抄−母より/白い壁の中 抄/内灘村砂丘地 抄/冬のうた−喪失の季節 抄/わたしの心の愛の歌/哀唱/ロマネスク/三つのソナタ/寂寥の歌/少女唱
【あとがき】

橘進詩集発行にあたって
「含羞のひと」

 橘さんとわたしの夫吉朗とは,金沢第二中学校の同級生だった。いつもはにかんだような内気でもの静かな橘さんと吉朗は親友だった。橘さんは,金沢第四高等学校理科へ太平洋戦争最中の1944年に入学した。その年の内に,橘さんは突如高校を退学すると言い出した。徴兵猶予のある理科だったから,そこに入って徴兵をのがれ生き延びようとして若者や親たちも必死たっだ。
 必死の引き止める吉朗に彼は言った。「許してくれ。僕は自分の希望でもない理科の安全地帯で生き延びることが苦痛なんだ」。そういう二人の友情と,真摯に生きることを選んだ橘さんの青春を思い起こすたびに,70余年後の今も,私は涙ぐんでしまう。
 それから軍隊生活の悲惨を体験し,心身を痛めつけて復員した橘さんを待つ家族はすでにいなかった。さらに彼自身が肺結核に罹り,石川県の国立結核療養所で10年近い療養生活を送る。そして肺の手術によって普通の人の3分の1の機能となった肺を抱えて出所して,彼の新しい人生が再スタートした。
 わたしたち夫婦は金沢から愛知県田原市渥美町に移り小さな診療所を開き夫は内科医として,わたしは産婦人科医として働いていた。その診療所の衛生検査技師として彼を迎えることになった。彼はいつも貧しく懸命に生きている人々に逢いに行った。11月の末のその日も豊橋まで出かけ遅くバスで帰った。彼が58歳で突然の死を遂げたのは1983年12月5日。
 短いが幸せな年月だった。
 彼の一つの顔は,当時の大きな公害問題でありながら声をあげにくかった火力公害反対の全国的な結集を行い,反火力全国連絡会の事務局長として東奔西走の日々だったことで,もう一つの顔は,彼の死後発見された自筆の詩集に見る抒情詩人としての顔だった。そして今回,わたしの橘さんへの友情の花束として彼の詩集を発行させていただいた。詩人としての彼の背景にあるのは,「お母さん」に代表される亡き母と少女にたいする憧憬と賛歌ということであり,そしてもう一つは,悲惨な結核療養所のなかでもなおかつ希望の火を燃やし続けた「白い壁」などの絶望と希望の交錯する日々の体験である。
 わたしは彼の死後,遺された仕事を完成させるために奮闘した。その一つが,彼が発案し継続中だった私の父矢後嘉蔵の伝記である。戦前富山農民運動の創生期から戦後に至る軌跡を追って,生前父嘉蔵の話をテープ録音したものを中心に『不敗の農民運動家矢後嘉蔵』を2008年に完成させた(刀水書房)。昨2017年に,橘さんが精魂こめた『火力発電と渥美の住民 渥美の公害勉強会橘進編』を世に送った。
 夫吉朗は2007年81歳の天寿を全うした。この橘進詩集が吉朗と橘進に送るわたしの最後のプレゼントとなろう。

   2018年8月

  遺わされこの世に在りしを気付かざりき気付きしはすでに夕焼けののち
                                    北山郁子(93歳)
【著者紹介】
橘 進 たちばな すすむ
1926年1月2日石川県に生まれる
1943年3月石川県立金沢第二中学校卒業。1944年4月金沢第四高等学校理科入学,同年中退・徴用・召集。1945年復員,49年国立結核療養所入院。1955年北山医院へ転院,59年,北山医院に就職。1983年12月5日亡くなる
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